御鎮座

本殿天平勝宝二年(750年)長さ二丈におよぶ流れ星が降るという異変があり、孝謙天皇が深く憂慮されていた時、伏見久米の里に翁が居て、白菊を植えて楽しんでいる所業が、いかにも奇妙なので、里人が翁に名前を問うたところ、
「吾は、太玉命で天下の豊秋を喜び、年久しく秋ごとに白菊を賞でて来たり、もし干天で、稲が枯れる時には白菊の露を潅がむ。」と、手に持った白菊を打ち振るうと、たちまちにして、清水が湧き出てきて尽きる事がありません。そして言われるには、
「人々一度この白菊に霑えば、たちどころに福運が着て、家運は長く隆盛し、子孫繁栄し、火災の禍から除かれるであろう。」
孝謙天皇御宸筆里人はこの奇端に驚き天皇に奏上したところ天皇は事のほか喜ばれ「金札白菊大明神」の宸翰を里人に与えられたので、里人は力を合わせて社殿を造営したと記録されています。
伏見(高天原より臥して見たる日本の事)に宮居建設中、突然金の札が降り、札には、永く伏見に住んで国土を守らん、という誓が書いてありました。何事かと人々が集まって来るうちに、虚空から声がして、
「我こそは天照大神より遣わされた天太玉命なり、我を拝まんとすれば、なお瑞垣を作るべし」と、聞こえたという話になっております。
またあるいは、清和天皇の御代、貞観年間(859~876年)橘良基が阿波国より天太玉命を勧請したものとも伝えられています。

 

伏見九郷之図沿革

社格は旧指定村社(明治六年村社・昭和三年指定村社)ですが、伏見に於ける最も古い神社の一つで、旧久米村の産土神として崇敬されていました。
室町時代の「伏見九郷之図」を見ますと、久米村のところに本殿の前に諸建物と神宮寺である西方寺が描かれています。
興味をひくのは「白菊石」と「良基墓」が描かれているところです。
いずれにしても旧石井村の御香宮と匹敵する規模と信仰をもった社で、桓武天皇以降歴代天皇のご崇敬も厚く、行幸を賜ったり修繕の勅を下されるなどしていました。
正安元年(1299年)後伏見天皇は荘園を寄進し誠に殷盛をきわめましたが、応仁の乱による焼失ののち、伏見宮貞常親王によって再興され、後柏原天皇の御代に修繕の勅があって過日の社勢を取り戻しました。しかしその後ほどなくして、豊臣秀吉による伏見城築城の際に現在地より西方250米の御駕篭町へ移されてしまいました。旧社地には近年まで「白菊井」と呼ばれる名水がありました。
昭和初期の金札宮境内祠官の金松弥三郎宗広は本願寺の存覚に歸依して元亨二年(1322年)境内に久米寺を再興し、文和四年(1355年)に西方寺と改められました。慶長九年(1604年)喜運寺が創建された時、金札宮はその鎮守杜として現在の鷹匠町に移転し、明治の神仏分離で神社は独立し現在に至っています。
現在の社殿は、弘化三年(1846年)伏見奉行内藤豊後守の許可により造営を始め嘉永元年(1848年)完成したものです。
本殿の縁に座る一対の狛犬は実に品良くのびやかで、往時の金札宮の繁栄を物語っています。

 

クロガネモチの実クロガネモチの木(市指定天然記念物)

当社のクロガネモチの木は樹齢1200年に達するとも言われるご神木で、京都市の天然記念物にも指定されています。境内にあり、地上数米のところから大枝が分かれ、伸長して整った樹冠を形成しています。
樹高10.6米、胸高周囲2.19米でクロガネモチとしては大きなものです。クロガネモチは雌雄異株で、この木は雌木であり、冬季には木々いっぱいに赤い実を付け、ご神木としての霊気に満ちています。

謡曲「金札」

現代にまで伝わる能の謡曲「金札」は、当社金札宮の縁起を表したもので、観阿弥の作と伝わっています。
謡曲「金札」桓武天皇の平安遷都の際、伏見の里に社殿造営のため、勅使が下向、神のお告を持っていますと、天から金の御札が降ってきました。それに天太玉命がこの国を護るため、この地に住むと書かれています。天太玉命の降臨と、その神威を示し、天下泰平を讃えたものです。

「白菊井」伝説

「山城名跡巡行志」に、「伏見の久米の里に白菊の翁が住んでいました。白菊に水をやり育てていましたが、ある年旱天が続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露をそそぐと、たちまちそこから清水がこんこんと湧き出た」と記されています。
旧社地にあった「白菊井」の伝説で、霊水信仰から社が興ったことを表わしています。

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